| 備後に生きる(上) 戦い支え合い音楽の道歩む |
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| 毎日新聞 2003年6月19日(木) | ||
![]() 寄り添ったりぶつかったりしながら夫婦で音楽を紡ぎ出すデュオ三木=福山市東深津町の自宅で |
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| 「音楽は楽しむもの」 常に聴き手に語りかける夫婦ユニット「デュオ三木」。ピアノの三木健嗣さんとバイオリンの登志江さんは、高校での出会い以来40年近く、演奏会や音楽教室などの場で音楽を奏でてきた。しかし、この言葉をつかむまでの道のりは、決して平坦だったとはいえない。人生も、音楽も。 福山市東深津町の静かな住宅街。木造の古い一軒家の部屋に、グランドピアノがぽつんと1台。2人は1975年1月、「駆け落ち」の末にたどり着いたこの地で、演奏活動と音楽教室でプロとしてのスタートを切った。知人はなく、生徒が数人しかいない日が続いた。 福岡県北九州市出身の健嗣さんと、大阪市出身の登志江さんの出会いは、東京芸術大学付属高校時代。健嗣さんはある日、教室でバイオリンを弾いていた同級生の女子がピアノ伴奏者に向かって「下手くそ!」と叫んでいる現場に出くわした。その生徒は健嗣さんにまでバイオリンの弓を投げつけ、怒りをあらわにした。 「物すごい剣幕だったが、演奏は確かにうまかった」。健嗣さんはその場で、自分が伴奏をしようと決心。その生徒こそが、登志江さんだった。 楽器との付き合いはともに3歳ごろから。健嗣さんはピアノ講師の母から、ほうきの柄で手をたたかれる厳しい手ほどきを受けた。登志江さんは、バイオリンが趣味の父親に「気がついたらバイオリンを持たされていた」。 「自分の演奏が世界一」と信じていた2人。思春期の大胆さと一つの楽器に打ち込んで生きてきたプライド。出会ってからは、互いに戦うように演奏を磨いていった。 当時、健嗣さんは「苦しそうに練習する姿を見せたくない」という思いから、生徒や教師のいない午前5時ごろ、学校に潜り込んでピアノを弾いていた。1日8時間練習した時期もあった。「音楽は人生を戦う武器であり、生きるうえでの心の支え。でも好きではなかった」。相反する思いを抱えて悩み、2年生の時に出席日数不足などで留年。 “事件”はさらに続く。 登志江さんが卒業演奏会を控えた68年の秋、在校生の健嗣さんが伴奏者として出演するか否かで学校ともめた。登志江さんは「違う伴奏者を選ぶくらいならば、無伴奏で弾く」と主張。結局2人で参加したものの、登志江さんの家族は「あんな不真面目なやつとの交際はこれで終りに」と宣告した。 健嗣さんは「妥協をしないで生きようとすると周囲とぶつかる。人生はおもしろくない」と感じて、学校を飛び出してしまう。遠くに行くと決めて、鹿児島県の種子島で土木作業員に。けんかに明け暮れたが、家族や恩師の説得で約8ケ月後に帰京した。別の高校を卒業して大阪芸術大に入学し、共通の友人を通じて東京の武蔵野音大に通う登志江さんと再会する。 登志江さんの両親の交際反対は、まだ続いていた。 家族か、パートナーか―――。「父から逃れたい」という気持ちもあった登志江さんは、ついに健嗣さんを選んだ。家財道具を積んだトラックで大阪へ向け出発。ともに22歳の秋だった。 健嗣さんの大学卒業を待って、2人は生まれたばかりの長男を連れ、健嗣さんの親類の縁で福山市に移り住む。健嗣さんは近所の子どもにピアノを教えて生計を立てた。登志江さんのバイオリンは父に取り上げられ、新たに買う金銭的な余裕など、どこにもなかった。 登志江さんが再びバイオリンを手に入れ、デュオが復活するのは、それから7年になる。 |
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| ■ | 音楽は楽しむもの生演奏で心の内感じて 毎日新聞 2002年10月6日(日) | |
| ■ | ファミリー 夫婦de健康 中国新聞 2003年2月18日(木) | |
| ■ | 備後に生きる(下)生き方重なる“音”求めて 毎日新聞 2003年6月26日(木) | |
| ■ | 生演奏鑑賞会 児童ら合唱も 中国新聞 2005年3月2日(水) | |
| ■ | BINGO街の人 Bjビジネス情報 2005年4月1日(金) | |